最近、意識的にニコンサロンに作品を応募しない人が出てきました。特に若い人にとってメーカー系のギャラリーがそれほど魅力的でなくなった理由は、自分の作品を写真表現のジャンルに納めたいとは思ってないからです。「俺の作品は写真じゃない、アートだと」。彼らにとって、ニコンサロンでやるということは、自分の作品が写真のカテゴリーに入ってしまうということで、困るわけですよ。同じイメージの作品が、アートというカテゴリーに区分されるかどうかで、写真の値段、ステータスに大きな違いが発生するという、商業的な環境ができてしまったということです。だから、現代美術の美術館やギャラリーでならやるけれど、「ニコンサロン?」みたいなことになっている。
現在は、そういう意味で公、私機関のギャラリストが絶大な力を持ってきています。そこで、ニコンサロンは、70年代の草創期のコンセプトから脱して、新しいコンセプトを確立する必要に迫られています。
(記事を一部引用しています)
(記事元)https://news.yahoo.co.jp/articles/9a12083d884272014f17eb31c13eac317a9f0259
苦境に立つメーカ系ギャラリー
AERA dot.がニコンサロンについての記事を報告しています。
記事によれば、ニコンサロンでは以前はメーカがスポンサーをしているという状態ではありましたが、展示内容には一切口だししないというような形で運営されていて、ニコンサロンで写真が展示されるというだけでステータスがあるような状況だったとしています。そのため多くの人がニコンサロンで写真を展示したかったようですが、現在は状況が異なっているのだそうです。
最近では民間の写真ギャラリーや美術館が写真企画を広く実施するようになり、必ずしもニコンサロンでなくともいいというような状況になっているようですね。
そして最近では、あえてニコンサロンに作品を応募しないという人が増えているそうです。その理由は、自分の撮影したものは写真ではなくアートだからとしています。つまり、写真ではないのでニコンが関与する写真展ではなく、美術館などが企画する写真に関する展示会や、アート展といったほうが自分の作品に好ましいということなのでしょうか?ニコンのギャラリー=写真という固定した観念があることが、問題をややこしくしている可能性がありそうです。
問われる「写真とは何か」という問題
いまではスマホが台頭し、画像処理技術も進化して、合成技術やデジタル的な画像調整などが簡単にできるような状況になっています。最新のスマホには、センサーから被写体の距離を測定できるLiDARが標準的に搭載されつつあります。スマホから被写体や背景までの距離を測定することができれば、ソフトウェア的に背景をリニアにボケさせることができるため、今後の技術次第では完全に背景ボケや前ボケを実現できることができるかもしれません。
さらに最近では撮影した画像からノイズを除去したり、色味を自分好みのような色に変化させたり、場合によっては人間の肌質を完全に変えてしまったりすることも可能になっています。
「写真」という前提では、どこまでの加工を写真とするかということが問題になる可能性がありますが、アートということにすれば撮影した画像をどこまでも加工しても、それに対して問題が起こることはありません。そうなると写真よりアートのほうが、より加工できる幅が広がることになります。
フィルムよりデジタルのほうが加工できる幅が広がっているわけですが、いわゆる「写真」では極端な加工は好まれない状況にあります。ですが、加工すればキレイになるのに加工しない(できない)のはおかしいという意見も一方ではあると思います。
写真とは何か、写真コンテストとしての写真はどのようなものでどこまで加工が許されるのか、といった問題が今もある一方で、だったら自由に加工してアートとして表現すればいいじゃないという意見があるのも理解できる感じがします。
メーカ系ギャラリーは、”若い人”にとってどのような立ち位置として見られているのでしょうか?
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コメント
コメント一覧 (7件)
いずれにせよ、写真を生業として生き残れる方はごく一部。
自分の作品は”写真”ではなく、”アート”だと言いたい気持も判らなくもないですが、
作品を発表できる場所があるのなら、どこでも大差無いように考える方が合理的じゃ無いでしょうか。
見て貰わなければスタート地点にさえ立てないわけですし。
加工の有無ですが、もはやデジタル画像である時点で加工物と考えても良い様に思います。
フィルム時代は撮ったものがそのまま作品となっていたが、
デジカメの登場で撮った画像の加工が可能となり写真の概念が変わりつつあり、コンピュータグラフィックに近くなっている。メーカーのフォトサロンが閉鎖されるのも時代の流れかと。
そもそも『写真』って言葉が良くない。
言葉をそのまま捉えれば、『ありのままを写すもの』になってしまいますからね。
おそらく、多くの若者にとって『写真』は『型に嵌まった退屈なもの』という認識なのでは?
報道や記録(記念写真を含む)目的以外で撮影されたもの(=作品)は、本来、広義のアートだと思うんです。
見たままを忠実に再現するのではなく、何らかの撮り手の意思が反映されている筈ですから。
撮影手段がフィルムからデジタルに移行したことによる一番のメリットは、表現方法が多様化したことです。
但し、それは必ずしも良いことばかりではありません。そこに存在するモノを『抹殺』してしまったり、逆に存在する筈のないものを付け加えたりという加工が、半ば『当たり前』になってしまっています。
僕は自分の中でのルールとして加工は『傷消し』程度に留めてますが、露出や色味は、見た目と全く異なるモノが大半です(勿論、デジタル・フィルターも大好物)。
これも『写実主義』の人から見れば完全に邪道でしょうが、その手の人たちの批判なんて、痛くも痒くもありません。
ただ、おそらく世の中の多くの人たち(特に若年層)は、他人の評価、特に批判的な意見に対してセンシティヴでしょうから、わざわざ批判を受けるリスクが高そうなメーカー系ギャラリーに、作品(と呼べないモノも目につきますが)を展示したいとは思わないでしょうね。
特に、Nikon信者には偏狭な爺さんが多いという、ネガティヴなイメージが少なからずありますから。
美しい、インパクトあり、品がある作品ならジャンルは関係なし。ニ科写真展ではアート部門あるから大変好ましい!
絵画の世界も同じ道をたどっている感じですね!間口を広げないとアウト。古い頭の人は引退ください。
やはり公への発信の場が昔はギャラリー展示くらいしかなかったのに対してSNSが台頭してきたのは大きいかなと。その場で撮った写真をそのままor現像してアップロードすればその瞬間からダイレクトに反応貰えますからね。その気軽さとスピード感が既存のギャラリー展示の価値を上回った結果ではないのかなと。なのでこれからは新しい価値観でギャラリーに展示したいと思わせるような付加価値がないとどんどん縮小していく結果になると思います。ある意味カメラ市場がスマホ市場に取られた構図と似ているような気がします。
進化しないものは滅びます!詰まり、時代の変化、アナログからデジタルに変わってしまい、表現の多様性が無限大となりました。メーカーがいくら画素をあげても意味無し、価格が上がるばかり、若者は引きますよ。時間の問題で後数年で写真の展示会場の殆どは消えるであろう。パソコンのなかで写真は死蔵され消滅するであろう。コロナの問題もあります、先が見通せませんわ!
そもそも「写真」という言葉には「真実を写す」なんて意味はありません。
また、「真実」は真実を写す性能を持っていません。
フォトグラフ「光を描く」のみです。